アムドの南

中国青海省東北部チベット文化圏を中心にした旅の記録です

紅原・漢族の逆襲

 

バスは山深い道を行く。遠く山脈が見える。

 

「紅原」に近づくと平原になる、黄河から別れた川の水が草原を湿地帯に変える。
街の近くに月亮湾という川が大きくカーブした観光地がある。
バスの中からそこが見えた。月亮とは月のことだ、満月のように実にきれいにカーブしている。

 


2時間くらいで街に着いた。明日のバスの時間を調べようとターミナルはどこかと聞くと、運転手が乗せて行ってくれた、1キロほど戻った所にあった。

切符売り場には時刻表がない。お姉さんに聞こうとすると、プリプリして仕事を片付けている、トラブルがあって帰りが遅くなったらしい。
やっと終わったので聞いてみると、きた~っ!ものすごいけんまくでどなりまくる。
そんな事隣りの食堂で聞きなさいよ、うるさいわね。と言い捨てて出て行ってしまった。

 久々に中国人の洗礼を受けた。

 隣りの食堂に行ってみると、食事をしていた男が紙に書いてくれた。9時発のバスで途中下車だ。
一応わかったので街に行こうとターミナルを出ると、ちょうどタクシーらしき車が通りかかった。
ドアを開けるので乗り込んだが、走り出してからしまったと思った。助手席にも男がいて相談している。
少し雨も降りだしたしあきらめてホテルに行ってくれと頼む。
一軒目のホテルは満員だった。二軒目は部屋があった500元もしたが。
50元と運転手は言う、それはないだろう30元で十分だと渡すが受け取らない。わあわあ言い合って結局50元渡してしまった。

 

ここは共産党発祥の頃、毛沢東が軍隊を連れて長征で通った所だ、湿地と寒さでたくさん軍人が死んだらしい。
それで共産党の赤にちなみ紅原と名付け、共産党の聖地となった。

 

ちょうど今日は日曜日でたくさんの観光客が来ていた。ホテルもたくさんあるがどこも混んでいて忙しい。
ウンターのお姉さんも忙しさで少し不機嫌だ、いろいろおこられながらチェックインを済ます。

 

チベット人はいいなあと言いすぎたのが聞こえたのか、漢民族三人に逆襲されてしまった。
それだけではなかった、荷物を整理して気がつくと旅の予定と旅の記録をつけた小さなノートが見当たらない、どこを探してもない。
ショックだ、旅はもう終わりに近づいているから予定表がなくても何とかなるが、戻ってから書こうと思っていたブログの旅行記も書けなくなる。
これもあの三人のせいだ、と思ってもどうにもならない。あきらめてシャワーを浴び飯を食いに街へ出る。

 

広場でまた盆踊りをしていたが始まったばかりで人が少ない。また来ることにして食堂を探した。
火鍋の店で食事して戻ると、終わっていた。
せめてもの幸いは、高い牛肉をやめて、安い鶏の腸にしたらこれがうまかったことだ、お代わりしてしまった。
みやげ物屋でヤクの毛のマフラーを買って帰り寝た。

 

しかし次の日ターミナルに行くとノートがカウンターのはしに置かれていた。
変な文字の書いてあるノートなどだれも興味がなかったのだ、よかった。
ごめんね切符売り場のお姉さん、と思うのは早かった。
お姉さんは私を見ると昨日の仕事の怒りがよみがえったらしく。「唐克」に行きたいと言う私に、途中下車はないと言いはり、終点「若爾蓋」までの切符を買わせた、47元。

 


勝てないな漢民族には。

アバの丘

 

バスターミナルは一本道のはずれにあった。
8時半ごろ荷物を引いて行ってみた。11時に最初のバスがあった。
11時のバスで「紅原」に行きたいと言うと、おばさんが紅原行きは15時だと言う。
公安に11時に出てけと言はれてる、と言ってみるが通じたのか通じないのか、15時だと言う。
よく見ると11時の便は「マルカム」行きだった、途中から反対方向に行ってしまう。
でも15時まで街をうろうろしていて公安に捕まらないだろうか、心配だがしかたない。
15時の切符を買って、荷物を売店に預け街をうろうろしに行く。

 

ターミナルの近くに小さなホテルがあり1階が茶館になっていた。
もうお茶が飲めるかと聞くと、掃除をしていたお姉さんがいいわよと言った。
ゆったりとしたソファーでお茶を飲み本を読んでるうちに寝てしまった。
あわてて起きたがまだ十分時間がある、ふと通りの裏に小高い丘があったのを思い出した。
そうだあそこに登って昼寝をしよう。ターミナルの近くで買った揚げパンを食べて丘を目指した。


道があるようなないような所を登ると、一軒の家があった、家の前にテントがあり子供たちが遊んでいた。

すると母親が食べ物を持って家を出てきた、これから昼飯らしい。

いいなあ毎日丘のテントで食事かあ、景色も最高だし。

 

少し歩くとレストランがあった、この辺りアバ地方の草原にはよくある遊牧民風レストランだ。いくつも小屋が立っていて、店員が厨房の建物から食べ物を運んでくる。

ひと組の小屋を見ていたら、最初のお盆にヤクの骨付き肉をたっぷり、それをナイフを使って食べていた、その後はスイカをたっぷりそれで終わりだった。でもうまそうだ。
中をうろうろしても店員は笑っているだけで何も言わない。
飾りのタルチョの影にシートをひいて休んだ。

      私のピクニックセット

 

アバの丘に寝ころんで考えてみた。
なぜこんなきれいで明るい街の人たちが、過激に抵抗運動を続けるのだろう。
もっと暗く生活が苦しく、生きるのがやっとのような所を想像していたのでおどろいてしまった。
むしろ衣食住が足りているような所でないと、政治的な事を考えることはできないのかもしれない。

 

店にはみんな車で来ている。

山の向こうまで点々と民家が続いている。

反対側から店を見上げる。


1時間ほど休んで丘を降りた。大道りにはいく軒も茶館がある。
またそのうちの一軒に入ってみた、一階には受付とソファーがあるだけだ、二階で休むようになってるらしい。
このソファーに座って、棚のインスタントカフェラテを飲んでもいいかと聞くと、いいと答えた。
ラテを飲みながら記録を付けていると、受付のお姉さんがのぞきこみいろいろ話をする。
じつはマルカムの人でこの店に働きに来ているらしい。
きゅうにあなたが国に帰る時私も連れてってくれない、などと言う。
僕は貧乏だからダメだよ。とまじめに答えた私も私だが、それを聞いて本当にさみしそうな顔をする彼女にはびっくりだ。
やっぱり生活は苦しいのだろうか。写真を送ってあげることにした。


ぶじ公安には会うことなく、15時発のバスでアバを離れた。

アバ(阿壩)・公安局訪問

 

道の途中で待ち構えていた公安にパスポートを見せると、降りろ、こっちの車に乗れ、荷物も一緒だ、と言われ乗り換えることになった。
トラックの運転手にいくらだと聞いてみた、50元と言うのでおまけして100元払った。
なんで50と言うのに100も払うんだと公安がうるさい、あれは俺の謝だと言うと公安も黙った。

 

しぶしぶ公安の車の後部座席に座ると、両側に二人の公安が乗った。
公安局はすぐだった。途中さっきの運転手が車を停めて心配そうに見ている。
心配いらないよと振り向いて手を振ろうとするが、がっちり両側の二人にガードされて動けない、職業がらひざを使ってうまく押さえ込んでいる。

警察に連行されるというのはこんな感じなんだろうなあと思った。
父上様母上様こんな不祥な息子を持ったことをお許しください。

 

検問していた公安は三人しかいない、私を連れて三人ともいなくなったらその間の検問はどうするんだ。
もしかして私はちょうどいい今日の獲物だろうか、ふと不安がよぎる。

アバは知る人ぞ知るチベット問題抵抗運動の中心地だ、焼身自殺をした人が約30人もいる、ダントツ1位だ。だからこそ来て見たかったのだけれど少し甘かっただろうか。
ちなみに同仁のニャン君の村でも、一人が焼身自殺をしていると言っていた。

 

あまり公安局らしくない建物の二階に連れて行かれ、ソファーに座らされる。
他にも何人か公安がいた、しかし意外にも親切だ、お茶を出してくれ冗談なども言っている。
三人の公安はしばらくすると出て行った。けっこう長く何かを調べている。

テーブルの上に置いてあった半分になったスイカを食べるかと聞いて、切り分けてくれた。
テーブルに置いてあったスイカなんて生ぬるくて食べたくもないなあ、と思いつつ口にすると、不思議だ甘くて冷たい。
湿度のせいだ、湿気が少なく空気が乾いていると日があたらなければ、ほったらかしておいても冷たいのだ、と推理してみた。
意外なおいしさにおもはず、

すいません刑事さん、ゴンパに行ってチベットの旗を振り、フリーチベットを叫ぼうと思いやって来ました、もうしわけねえ。
と口走りそうになった。

あぶねえ、あぶねえ。

何も出てこないはずなのにいつまでたっても調べが終わらない。
ふと部屋の壁を見ると大きな旗が飾ってあった。真っ赤な地に真黄色の旧ソビエトのマーク鎌とハンマーだ。きっと共産党の旗だ。おもはず、

旗を見てみろ、共産党は労働者や農民、貧しい人たちの見方だぞ、富裕層の見方じゃないぞ。
と腕を振り上げそうになった。

あぶねえ、あぶねえ。

やっと調べが終わった。

 

さあホテルに行きましょう、二人ほどが私を連れて近くのホテルに行く。
やだなあホテルは自分で選ぶよ、この街での行動は公安に管理されているわけか。せめて安い部屋にしてくれ。

しかしこれだけでは終わらなかった。ホテルのカウンターにいるとどこからともなく大きな男が現れた、ジーンズに普通のシャツを着ている。
男は明日11時にバスがある、それに乗って街を去れと言った。
え、僕はただ観光に来ただけだ、ゴンパを見て回るだけだ。と言うと、
ゴンパの見学はだめだ。
何もしないよ大丈夫だ。
だめだ明日出て行け。
そこへ中国人の観光客が戻って来た。
中国人はいいのか。
いい。
何でだよと、食ってかかろうとしたが…。
わかった明日朝この街を去ると言ってしまった。男の目つきがだんだん鋭くなってきたからだ。
男は少し笑みを浮かべるとホテルを去って行った。

 

と同時に他の公安も去った。カウンターにはお姉さんとおばさんと私が残った。お姉さんも男に何か言ってくれていたみたいだけれど、意味なかった。

部屋のカギをくれおばさんが案内する、よかった安い部屋だった。
おばさんにこの街でも盆踊りをやっているかと身振り手振りで聞いてみる。
やっているわよこの裏の広場で。もうすぐ7時になるから始まるは、早く行きなさい。


おばさんのうれしそうな顔を見て少し気分が戻った。

 

バトン・ゴンパ→アバ

 

もと来た道に戻り1時間弱行くと、もう一つゴンパがある。
バトン・ゴンパだ、ここには文革の破壊をまぬがれた壁画があると書いてあった。
ほとんどのゴンパは文革のせいで古い物は残っていない、ここなら見れる。
あのキラキラした仏像やタンカが、古くなるとどうなるんだろうと思って期待していたのだが。
寺は工事中、その上壁画のあるお堂のカギを持った坊主が不在。がっかりだ。

ここからこっちは古い建物です、若い僧が説明してくれた。
確かに工事していない側のチョルテンは古い、マニ車も古い感じだ。

しかたなく運転手と一緒にマニ車を回してコルラする。しかし狭いとこなのですぐに終わってしまった。

 

古いマニ車を回していると、取っ手のところに抗菌作用を施してくれないかなあ、と思うのは都会に長く住みすぎたせいだろうか…。

 

せっかちの運転手さんとついにお別れだ。1000元出せば「アバ」まで行くぞと言うけれど、遠慮しといた。

乗ってる車は三菱ならぬ五菱。この辺りでは頑張っている、蘭州でもたくさん見た。

 

まだ時間は十分ある、入口近くの家に荷物を預け少し先の村まで歩いた、食べ物を探しに。
20軒くらいの村がすぐにあった、商店もある。のぞくとカップ麺があった。
この村にはふさわしくないようなマツコ体型のおばさんが出てきてお湯を注いでくれる。
外国人とわかるとただでいいと言う、そうはいかない金を払って、麺を持っていって河原に座って食べた。

このあたりの民家、少しやりすぎだ。

 

元の所へ戻ると、荷物を預けた家が売店だった。さっきは閉まっていてわからなかったのだ、なんだもっと早く言ってよ。

二階は旅館のようにも見える。
男たちの写真を撮って送ってあげることにした。


そして寺の入り口のところで車が通るのを待った。
別れた運転手が必ず通るから大丈夫だと言っていたが、いつまでたっても来ない。
20分に一台くらいは通るが、手を上げても素通りだ。一台だけ停まったがアバには行かないと言った。
どこからともなく年寄りの巡礼者が幾人も現われて、寺にお参りに行く。よく見ると入り口の右側の建物はチベット人の養老院だった。

奥がゴンパ、右が養老院、この入り口で待っていた。

年寄りにはちょうどいい散歩道だ。いろいろ話しかけてくるが何を言っているのかさっぱりわからない。

 


そしてついに車が現れた。2時間以上たっていた。この辺でよく見かけるトラックだ、座席が2列6人掛けになっている。
運転手の男は簡単にOKしてくれた。
しかし走り出すと外国人だとわかったらしく少し緊張している。
いろいろ聞いてみるがほとんど通じない、ただ毎日ザムタンとアバを往復していることがわかった。

道は両側に木が生い茂げるだけで単調だ、毎日退屈じゃないですかと聞こうとしたが、言葉が出てこない。
男は歌を歌いだすがいまいち乗らないみたいだ。もうしわけない、ただで乗せてもらっているのに話題もなくて。
男はとてもいい声をしていた。どの車にも必ずあるCDプレーヤーがない、毎日運転しながら自分で歌うのが好きなのかもしれない。

アバまでの道はずーとこんな感じ、よく見ると暑くもないのに蒸気が上がっている。

トイレ休憩してやっと緊張が解けた。
そしてドライブも終わりに近づいた。ザムタンからアバまでは100キロくらいだ。
だんだん高度が上がって行く、木がなくなって赤いハンカチ草が咲いていた、そしてタルチョが、峠だ。

するとアバの街が現れた、

180度全開だ!

 

川が一本流れていて、細長い平地の中心に街がありその両側を小高い山が連なっている、美しい。
この道を選んで正解だった。

こんなふうに山の上から街全体が見わたせる所は、世界中探してもそうはないだろう、普通は木々にじゃまされる。
もしアバに来ることがあったらこの山の上まで来て街を眺めてほしい。
残念ながら道がくねくね曲がるので町全体の写真は撮れなかった。

 

運転手がまたシートベルトを着けた、また検問か。ここまで二つくらい通ったが別に問題はなかった。

そして少し下ると、こんな所で私を迎えてくれる人達がいたのだった。

 

 

三人の公安だ!  つづく。

中壌塘 ザムタン・ゴンパ

 

あまり来た人の話は聞かないけれど、ここはおすすめです!
少し行きにくいのでバスターミナルの時刻表を。けっこう大きな街までバスはある。

 

昨日の帰りの車の中で、明日はゴンパに二つ行きたいと言うと、500元でどうだと言うことになり8時30分に待ち合わせ、同じ運転手で出発した。

 

北東へ50キロ、1時間半ほど走り右に曲がり細い道を行く。
いきなり用水路ができていて新しい街かと落胆するが、細長く草原が続き、村落がいくつも点在し美しい。
そのうち小さな国の王様のお城のような感じでゴンパの建物が見えてくる。

薄い雨の中、村の中心に駐車する。
いそがしく動く運転手が、次々と見物先を連れ歩く。

チベット人は、いつも三重にして腕に巻いている数珠を、寺に来ると左手に持って歩き仏像を拝む。

中心のお堂、少しけばい。

新しくキラキラしているが、光の具合がちょうどいいのかとてもきれいだ、タンカも美しい。

お堂を見守りながら二人の坊さんが、小坊主にお経を教えていた。

もう一人小坊主が入口のわきでお経を暗唱している。

成都から来たと言う若者四人と一緒になったおかげで、お坊さんがお堂の戸を開け、上に登らせてくれた。

一緒になった成都から来た四人。いちばん左は私の運転手、隣二人は四人のチベット人ガイド。

お堂の一番上、まだ工事中だ、お経の倉庫のようだ。

戸棚にお賽銭を押しこんである。

お経の版木が無造作に積んであった。

 

ガイドブックにはゴンパが三つあると書いてあったがよくわからなっかった。
見物する所はそんなにあるわけではないが、なんとなくおだやかできれいな所だ。
小さな桃源郷という感じだ。ここでキャンプしたら楽しいだろうなあと思った。

香格里垃2として売り出したらどうだろうか、ホテルを造らずにキャンプ場のあるゴンパとして。
成都からたくさんのくマイカー観光客が来ている今、中国にキャンピングカーブームが来ること間違いないから。でも中国人はゴンパには興味ないみたいだけれど。

 

また忙しく車に乗り村を後にした。